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寝不足ジラフ

音楽、映画、本、旅、インテリア、ファッションとか

「モモ」ミヒャエル・エンデ著 時間とは何か、人間にとって豊な生き方とは何か、を考えさせられる名作

「モモ」という主人公の少女が、人間の時間を奪う時間貯蓄銀行の「灰色の男」たちと戦う物語を通じて、著者は豊かな生き方とは何か、を問いかけてくる。児童文学だけど、児童文学って子供が読むことを前提としているが故に、かえって普遍的な、原始的なテーマが扱われることが多いような気がするね。単に子供向けの簡単なお話、ということでは済ませられない、大人が読んでも考えさせられるものも多い。

 物語の中では、時間貯蓄銀行(この時間貯蓄銀行っていうワードが何か独特でいい)の灰色の男たちに、人間の時間がどんどん奪われていく。何が効率的か、何が役に立つか、そんな考え方が過度に心を支配し、人々はいつもセカセカ動き回り、怒りっぽくなる。

 

広大な新住宅街ができあがりました。そこにはまるっきり見分けのつかない、おなじ形の高層住宅が、見渡すかぎりえんえんとつらなっています、建物がぜんぶおなじに見えるのですから、道路もやはりぜんぶおなじに見えます。ここに住む人びとの生活もまた、これと同じになりました。ここではなにもかも正確に計算され、計画されていて、一センチのむだも、一秒のむだもないからです。

 

時間をケチケチすることで、ほんとうはぜんぜんべつのなにかをケチケチしているということには、だれひとり気がついていないようでした。じぶんたちの生活が日ごとにまずしくなり、日ごとに画一的になり、日ごとに冷たくなっていることをだれひとりみとめようとはしませんでした。

 デフォルメされてはいるけど、まさに現代社会風刺だなこれは。物語ではモモが自分の友だちを救うために灰色の男たちと戦う。時間の国のマイスター・ホラがモモに話した言葉を読んでなるほどと思った。

時計というのはね、人間ひとりひとりの胸の中にあるものを、きわめて不完全ながらもまねて象(かたど)ったものなのだ。光を見るためには目があり、音を聞くためには耳があるのとおなじに、人間には時間感じとるために心というものがある。そして、もしその心が時間を感じとらないようなときには、その時間はないもおなじだ。ちょうど虹の七色が目の見えない人にはないもおなじで、鳥の声が耳の聞こえない人にはないもおなじようにね。でもかなしいことに、心臓はちゃんと生きて鼓動しているのに、なにも感じとれない心をもった人がいるのだ。

 五感と同じように、心もまた時間を感じとるための一つの感覚、いわば第六感なのだと。確かに心の持ちようによって、感じ方によって時間の流れ方って変わる。

振り返って自分自身のことを考えると、最近時間が飛ぶように流れていくな、と。効率的にしなきゃならねえ。時間がないからあれもこれもつめこまなきゃならねえ。今自分の役に立たなそうなモノや人にかかずりあってる暇はない、とか。朝起きた、仕事だ、夜寝る、そんな風に生きてるんじゃないか、と自分の心のあり方にはっとさせられる。

もう、この本はどちらかというと、子供向けというよりは大人向けなんじゃないか、とすら思う。子供は大人みたいに時間を気にしてセカセカするような経験は少ないから。でも児童文学ってみんな、そういうものだよなあ。書くのは大人なんだから。自分たちの生きてきた中から、普遍的な大切なことを子供たちにも伝えたい、という思いで書く。でも子供にとっては、それは大人になってみないとわからない。ある意味、大人が自分たちに向けて語りかけてるんだ。

 

児童文学、ほかにも読みたくなってきた。